みなケチブログ

皆がケチって教えてくれない本当のことが書いてあるブログ

他人のことより、自分のことが全く解らないからブログを書くのです

今週のお題「私がブログを書く理由」

 

「ブログとは」そんなことを考えると僕はいつも頭がこんがらがってしまう。僕は人前で何かを表現することが苦手だし、出来るだけ現実世界では目立ちたくないと思っている。正確に言うと、たわいもないことで目立ちたくはないけれど、いつか真に凄いことを成し遂げた際には目立ちたいとも思っている。世間様が僕の何かを褒めてくれても「そんなことで浮かれて顔を赤らめることは滑稽だ」と自分で自分をたしなめてしまう。「上には上がいるのだから世間の評価を間に受けたら近い将来恥をかくことになるぞ」と。自分で言うのは変な話だけれど、その点、僕の自己承認に対するハードルは世間一般よりも高いのかもしれない。

 

歳を重ねて思うのは「自分のことは自分が一番よく解る」なんて言葉がまったくの嘘だってこと。他人の深層心理は若かりし頃より解る様になってきていて、他者の言動や行動が自分の理想から外れたものであっても、どうして他者がそんなことをしたのかの想像が付くから大概のことには目をつぶることができる。それを世間的には「思いやり」と言ったり、悪い部分にフォーカスして言えば「諦め」と言ったりするのだけれど、その反面、自分のことは相変わらず良くわからない。なぜくだらないことで悩んでしまうのかとか、なぜ些細なことに苛立ってしまうのかとか、感謝の気持ちを表することに照れくささを覚えてしまうのかとか、自分自身への不甲斐なさが染みる。取るべき正しい選択が解っているのに、幾つになっても理想どおり対応出来ない自分に辟易することがある。

他者に対しては許したり、諦めたり、いずれにしろ寛容になってきているのに、自己への評価基準は北島康介が五輪出場を逃した際に注目された派遣標準タイムと同じく、日々刻々と高まっている。他者へのそれとは反比例に。

 

ただ、視点を変えると僕は僕自身を過保護にしている場合があることに気がつく。例えば、他者が些細な成功を収め賞賛を受け喜んでいる時、僕は「そこまでの成功ではない。そんなことで喜んでいてはそのうち足元をすくわれる」なんてことを考えるときがある(もちろん表には出さない)。この時、内面では、僕は僕自身の自己承認のハードルが高いことを賛美し、逆に成功し喜ぶ他者を相対的に低く評価している。自分自身のハードルが高いのに、自分自身の評価が高いという状態は一体なんなのだろうか。自分なんてまだまだと卑下しつつも深層心理では自己を承認し、正当化している自分がいる。それに気が付き、相対的に他者を低く評価していたことを反省し自分自身を戒めたりもする。

 

若者にある思い切りの良さを失った僕には慎重さが備わり、その慎重さや思慮深さは今の僕の売りでもある。若い頃の僕よりも今の僕は成長していると思うし、何に挑戦するにしても成功の可能性は自分史上では過去最大だと思う。ただ、自己承認のハードルは同速度もしくはそれ以上の早さで高まってきていて、もはや胸元にまで迫ろうとしている。ハードルの高さを慎重に見極めることは成功を収めるうえでとても大切なことだけれど、結局はいつかどこかで自己を承認しジャンプしなければハードルを飛び越えられるタイミングは永遠に訪れない。他者と自分を相対的に見比べることもまた大切なことだが、今の僕がしがちな「僕と他者の比較」は僕自身がいつまでもジャンプしないことを正当化するための手段でしかない様に思われる。つまりそれは自分自身のハードルを高くしているという様なかっこいい例えが似つかわしいものではなく、失敗を恐れいつまでも飛び出せないで足を震えさせている自分の存在を認めたくないが故、他者を出汁としているだけに過ぎず大変にみっともないことだ。

 

 

 

自分に厳しい俺カッケー。

 

えぇ、自分を褒めたい時、僕はブログを書いている。

 

通勤中のブロガーに読んでほしい清く正しいネット社会のこと

世の中には3種類の人間がいる。金持ちと、天才と、凡人だ。
それら3種類の人間それぞれが可能な限り自分たちが住みやすくする為に駆け引きをする社会において、金もなければ才能もない凡人が意見を反映するには数の力で勝負をしなければならないのだけれど、凡人の一部がインターネットを通じて自分が天才だとか、金持ちになれると大いに勘違いしてし始めている。
ネット社会で意識高い系がバカにされる様になって早何年が過ぎただろうか。バカにされてきた割に意識高い系が未だにスタバやフェイスブックやブログの世界に蔓延っているということは、凡人の枠組みの中でにおいて、意識高い系になりたい奴が実は多数派で、意識高い系を冷めた目で見ていた僕の様な意識低い人間が少数派だったということなのだろうか。
 
社会悪という言葉がある様に世が回るには一定程度汚いものが本来必要とされる。その汚れを無くすことで生じるカオスを防ぐためにも、先人たちは「必要悪」という実に気の利いた言葉を作り世を巧く動かしてきたのだが、昨今のネット社会においては悲しいかな押し売りと言えるほどのポジティブシンキングが目立つ。言葉どおり必要であるはずの「必要悪」ですら邪険なものと軽蔑されがちで、自己啓発本をコピペしたかの様な勘違いブログとそれを盲目的に称賛することで自分も高尚な人間側に回れると勘違いした人たちがウェブストリームを真っ白な洗剤の泡で埋め尽くしていく。
 
川が茶色いのは川底の泥が水流で削れているだけなので、僕としては茶色いことは気にしないのだけど、それを綺麗にしようとして洗剤を川に流し込む人がいれば迷惑だと声をあげるのは僕にとって正義だ。しかし逆に「注意するとは何事だ」と大声で避難された僕は、この人に何を説明しても時間の無駄だと考えてサイレントマジョリティへの仲間入りをしてしまう。
 
話し合えば分かり合えるなんてことは夢想家の詭弁だということは歴史が証明している。ニュースに流れる国際情勢からも見て取れ、人の命が関わる外交ですらそうなのだから、ネット社会における相互理解なんて言うまでもない。解らない人には解らないのだから交わってはいけないというのが正しい選択だ。表面的な多数派がネットの世に蔓延る今、この胡散臭いポジティブシンキングを僕は受け入れ、全員が将軍様を尊敬しているかの様な美しいネット社会の一員になってしまえばいいのだろうか。そうすれば少なくとも「痛い人たち」に絡まれることはないのだけれど、資産家とそれにコントロールされやすい薄っぺらくて能力と所得の低い意識高い系に侵食され、平穏で非交戦的な僕の現実世界の領土までもが気付かぬうちに浸食されてしまうのではないかと社会派な僕は心配になる。
 
この様なくだらないネット社会で僕が嘘をつき仲良しこよしで過ごすことは簡単だ。顔をあわせることもなく、気の利いたお世辞と綺麗事くらいはいくらでも思いつく。ただ僕はネット社会でしょうもない人の支持を集めるために媚びるほど恵まれない人生を過ごしていない。そんな態度の結果、僕のブログは閑古鳥が鳴いているけれど、それは僕が同じ様に媚びないからだ。ブログの内容が拙いからなんてことは絶対に無い。きっとそうだ。そうに違いない。そう思わないと辛い。あぁ神様。
 
このブログを読んで不快になった人もいると思う。ただ、この文章の多くは僕の本心では無く、ただの通勤中の暇つぶしのために書かれた自分で何を言ってるかもわからない散文に過ぎないということを肝に銘じて欲しい。ブログなんてこんなもんだ。真剣にユーモアなくコメントしてくる人の気が知れない。
読み返しもしない適当な文章故に読解するのには時間を要し、あなた方の通勤の時間つぶしには役立ったのではないだろうか。それならば幸いである。
 
詭弁論理学 (中公新書 (448))

 

 

 

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互助会知らなかったで済んだら警察なんていらねーんだよ

「知らなかったで済んだら警察なんていらねーんだよ」っていう言葉は、本当に知らなかった人に対して言ってるセリフではなくて、知らないふりをして罪を逃れようとする人間を追い込むためのセリフである。

 
世間的に良くないことを散々やって、そんなつもりはなかったとか、ネットの世界のルールもよく知らなくてとか、白々しいことをひょうひょうと語り表面上を小綺麗に見繕うことを当たり前の様に出来てしまう人間が僕はあまり好きではない。ましてや白々しい態度をとるだけでは足らず、「ネット上の社会悪への批判」というある種の正義に対し、「互助会なんて知った事じゃねーよ」などと強い口調で挑発をするなんて是外道。一般にはピュアなふりをして、批判する人間には唾を吐くどこぞの政治家の様なズルい人間が僕は嫌いなのだ。
 
「ネットの世界のルールもよく知らなくて」が事実かどうかはこの際大して重要ではない。(というか、ネット上だけでは収まらない返報性の原理を大の大人が知らないわけがないだろう)。
知っていようが知らなかろうが、事実として不特定多数の相手に股を開くことにより、その見返りとして自分の価値を高めのし上がってきたことは慨然たる事実なのである。「結果的に1000人の人間に股を開きましたが、1000人全員を愛していただけです」などということを言っても、誰もがそんなわけはあるまいと考えるのが当たり前。
これはつまり、多くの猛者男たちに支えられ人気となったグラビアアイドルがドラマに出始めた途端に水着NGと言い大物女優ヅラしている様なもので、そんな裏切り行為は見ていて滑稽だし決して気分のいいものではない。なんとか引き続き若者たちに夢とエロスを提供して欲しい。
 
話を戻そう。間違えないで欲しいのは、僕は今回、別に互助会自体を否定したくてこの記事を書いたわけではない。もちろん互助会自体に対して良い思いは今のところは無く、僕は可能な限り避けたい手段だとは思っているけれど(不人気ブロガーな僕もいずれ手を染めるかもしれない)、やりたい人はやればいい、やる人の自由だとも思っている。
 
僕がこの記事を書いたのは「互助会的なことをしていた」、もしくは「結果的にその状態だった」という事実があるのにも関わらず、「ネットの世界のルールもよく知らなくて」とか「見たもの全てが面白くて」の様な脳みそお花畑なことを大の大人がのうのうと言い放っていることが気に入らなかったからだ。そんな稚拙な薄っぺらなフィクションで知らなかったを通そうとしていることが気に入らなかったからだ。そんな記事が人気なとこを僻んだからだ(主にここだ。つまりただの僻みだ)。
そして、お花畑でファンシーなムードを醸す一方で自分を否定する人間に対しては牙をむいていることが気に入らなかったからだ。
 ウェブ上のどこぞの誰だか知らない人の言動に腹を立てることはあまりに馬鹿げている、というか大して腹も立ってはいないのだけれど、ネット上のくだらない行動はもちろんある種のパブリックにあるものなので批判するのもまた自由だと考える。

あなたの過去を知っている人間がいる限り、あなたが多くの人間に股を開いたという過去は消えない。その見返りによって多くの異性と突き合えたとしても、その陰でサセ子ちゃんというアダ名が付いて回るのは当然のことであり、「全員を本気で愛していた」なんてことを言っても滑稽でしかないし、「サセ子とか言ってるやつ馬鹿なの?」と逆ギレすれば当然反感も買うし、人を不快にもする。
 
僕が言いたかったのは、この記事を見たうら若き乙女たちは貞操を大切にして欲しい。AV女優はタレントになってもエロスから逃げないで欲しい。女優として売れた途端にグラビアやめるなんてことは言わないで欲しい。それだけだ。 

撮らないで下さい!!グラビアアイドル裏物語 [DVD]

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猫って愛想なくて、ワガママで、ちょっとバカで、最高だぜ

物心ついたころから僕は動物が好きだった。とりわけ猫には縁があり、幼少の頃に猫を拾い、猫を飼い、僕が思春期を終える頃までの長き人生を共にした。彼女は天寿を全うし、もうこの世にはいないのだけれど、今でも時おり僕は彼女との思い出に浸る。

 

彼女はお手とかお座りとか、人の言葉に反応して従うことなんて勿論なかったし、過度に懐く様な猫でもなかった。テレビのコマーシャルに出てくるような賢い猫でもないし、美しい容姿を持っていた訳でもなく、どちらかというと人の都合なんて無視する猫らしいマイペース猫だった。行儀が悪く、壁を引っ掻いてボロボロにするし、障子もたくさん破いた。小さいのに少し太っていて短足で、雑種だから柄だってあべこべで、目はクリっとしていたけれど、変な所からひげが生えてた。

 

家猫だったのに彼女はそんなソフトな生き方を嫌っていたのか、気が付けば自分で網戸を開けてに外へ出て行ってしまった。1階の窓のカギが閉まっていれば、2階のベランダから木を伝い荒野へと飛び出していった。

近所で猫の唸る声が聞こえれば音源は大抵うちの子で、近所の別の猫の飼い主は「小さいのに気が強いのね」ってなことを良く口にしていた。昼間は大抵外に居て、ごはん時に帰ってきてはたらふく食べて昼寝。その後はまた勝手に外出し、白い毛を埃まみれの灰色に汚しては、夕飯時に帰ってきた。

夕暮れ時、窓のカギが空いていれば自分で開けて帰ってくるし、空いてなければ泣き叫んだ。そんな時、窓を開けるのは大抵僕の役割だった。もちろんお礼なんて言われなかった。

 

そういえば、夜中になっても帰ってこないことも稀にあった。

みんなが寝る頃、鍵が閉まっていては彼女が家に入れない。僕の親はカギを閉め「放って置けば大丈夫」なんてことを言っていたけれど、僕は毎回ひどく心配した。

窓を開け大きな声で彼女の名前を呼んでも反応はない。少し離れた所に大きな道路があり、「そんなところまでは行かないだろう」と考えつつも、毎度毎度気が気でなかった。そんな時でも、彼女の名前を呼んでも反応が無い時でも、キャットフードが入った瓶を振り「カランカラン」と乾いた音を鳴らせば、どこからともなく彼女の首についた鈴の音が響き全力疾走で帰って来た。彼女はやっぱりお礼を言わず家に駆け込み、僕はそれを笑顔で迎えた。

主人の声より、食べ物に反応する。そんな奴だった。

 

そんな彼女はもう居ないけれど、僕は今でも猫が好きで、野良猫を見かければアイコンタクトを仕掛け、ツレない態度を取られれば口笛で注意を引く。どいつもこいつも気ままな猫たちばかりだけれど、そんな奴らを愛くるしく思う。ただ、いろんな猫に挨拶を交わしてきたけれど、それでも今でも彼女が一番で、家族なんて言葉で表すことが陳腐に感じるほどに大切に思っている。代わりは居ない。

僕にはまだ子供が居ないのだけれど、いつか僕に子供が出来た時、同じ気持ちが味わえるのかななんて、いい歳を迎えてきた僕は考えている。

 

もうブログ辞めたい。そんな貴方にニーチェの言葉を送ろう

駄目駄目ブロガーな僕

自分のブログのビューアーたちが、一体どうやってこのブログに辿り着いたのだろうか。ブログ運営者が抱くこの疑問は、GoogleAnalyticsを使うことで概ねのことが解決できる。

僕のブログは残念なことに、街のレストランでいうところの固定客である読者登録がわずか40人しかおらず、記事の絶対数が少ないこともあり1日のページビューはちょっとした村の村民数くらいにしかならない。

ただ、一日のページビューの7割が検索流入であることから、長期的に考え今の記事数の100倍、つまり6500記事を書き上げれば、田舎の市の人口くらいのページビューが見込まれる。僕のブログを書くペースをおおよそ1日1記事として、6435記事を書くには6435日、つまり18年後には僕のブログも一流である。ダメだこりゃ

 

悩める子羊を発見

さて、最近そんなアナリティクスを眺めていたら気になるキーワードがあった。

「100記事 書くことない」

恐らくこの検索キーワードで、僕が過去に書いたこの記事が引っかかったことだろう。 

ブロガー会の流行語「書くことねーよ」に、ちょっと頑張れば達成できる具体的な数字100記事を加味することで、ブロガーの苦悩を生々しく表現することに成功し見事僕のハートを射止めたこの嘆き節。この検索をしたブロガーに僕は激しく親近感を覚えた。今夜は彼のためにビールを煽りつつブログを綴ろうと思う。君だよ君のためだよ。

 

悩める僕の懺悔

さて、僕は上述の記事「100記事書くと人生変わるぞ、みんなブログ辞めんなよ」でこの様なちょっと前向きなことを書いた。

ブログを始めた時はブログでアクセス数稼ぐのが簡単とまでは言わずとも、もう少し順調に伸びていくと思っていた。読者数・アクセス数ともに伸びていないけれど、そんなことを気にする時期は過ぎた。好きなことを書いて、いつか評価される時が来るなんてドッシリと構えている。100記事書いた頃かもしれない。200記事かもしれない。

嘘である。ドッシリなんかしていない。悔しい。悔しい。

正直はてなブログには面白く無いのに人気のブログが結構な数ある。そんなブログがブックマークを数十集めているのが僕は気に入らない。注目のブログに載ることがいけ好かない。赤裸々な感情を吐露した上記エントリーのいま時点の成果は「ブックマークZERO+スター7」。たぶん同情票が7票。

こんな人気のないところで日々ブログを更新している僕は一体何者なんだ。僕はどこで生まれ、どこでブログを覚え、なんのためにブログを書いているんだ。僕がブログでブログが僕で。そんな哲学的な気分にすらなる。そんな時はニーチェに限る。

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ニーチェ氏かく語りき

いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、

歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。

その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ。

 ニーチェ

まずはてなブックマークの新着ブログに載り、はてなブログホッテントリに載り、いつかスマートニュースに載るんだ。

 

軽蔑すべき者を敵として選ぶな。

汝の敵について誇りを感じなければならない。

ニーチェ

僕の敵は面白くもないのに何故かホッテントリに載ってるあのブロガーなんかじゃない。僕の敵は僕自信が読者登録したあのブロガーだ。

 

高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ。

高い所へは、他人によって運ばれてはならない。

人の背中や頭に乗ってはならない。

ニーチェ

そうだ、迷うな。長い目で見れば検索流入だ。ファンを作ることだ。注目のブログなんてこっちから願い下げだ、はてな ! 

 

一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、

いつも間違っているということを知っている。

ニーチェ

え、僕、間違ってんのか。はてな、ゴメンな。注目のブログ載っけてくれよな。 

 

大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。

この苦痛のみが、われわれを最後の深みに至らせる。

ニーチェ

うーん、どういう意味。深い深いよニーチェ。僕には解らないよニーチェ。もうしばらくブログを書いて苦しんでみようかな。

 

いかがだっただろうか

「100記事 書くことない」なんて調べてる君は、このクソ記事を見て欲しい。こんな記事でも既に1800文字近くに及ぶ。恐らく一定数のページビューを得て、申し訳ないが、その内「ニーチェ」の検索キーワードで引っかかってくることになるかもしれない。書くことがないとか言ってる君、神は死んだ、書くことが無いなど言わず、固定概念に縛られず思ったことを記事にするのだ。そうすれば僕のブログの様になれる。ダメだこりゃ

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