みなケチブログ

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なぜ人は電車で化粧されるとイラっとするのか 〜どこよりも深く考察してみた〜

電車に乗る毎日。僕は時折、イラっとする

 
怪訝な顔で新聞を読むおじさん。それはいい。おじさんが新聞を読むのは自由だ、権利だ。寧ろ朝の貴重な時間を社会情勢の把握に努めるなんて立派だ。ただ、僕は新聞を持っているおじさんが側にいると警戒してしまう。出来るだけ離れようとする。
多くのおじさんは、新聞をめくる時の「バサッ」という空間を切り裂く人工的な音を立てる。得てして彼らは無自覚だ、純真無垢に紙をバサッとめくる、目をキラキラさせ新聞に没頭している。 

 

僕はそれにイラっとする。正確に言えば、音に対してではない。寝ている人もいる、皆が感情を消し、あらゆる我慢が存在する電車内という空間で、その音が幾分かの人を不快にしていることに対して無自覚なことに、僕はイラっとする。
気を使い、優しく「フサッ」と新聞をめくるおじさんもいる、頭を撫でてやりたい。その一方で、無自覚なおじさんもいる。新聞に罪はない。おじさん全体を一括りに断罪するつもりもない。
 

さて、今日の本題に入ろう。

電車で化粧をしている女性を見ると、おそらく多くの男性がイラっとする。そう言う友人もいるし、ネットで検索すれば同調者もいる。また、過去にはニュースやテレビ番組で「最近の若者は電車で化粧をする、みっともない」なんてことをやっていたので、世間全体として少なくともよろしくはないことなのだろう。

 

なぜだろう。理由が気になった。

化粧は上述の新聞の様に音がしない。違法行為でもないし、狭い空間にお尻をねじ込んで座席を確保するおばちゃんの様なものでもない。他人に何か影響を与える行為ではなく、化粧をしている人の中で自己完結する行為だ。でも僕はイラっとする。
 
繰り返すが、電車内での化粧は直接的物理的に他人に害を与える行為ではないはずだ。化粧品の匂いを指摘する人がいるかもしれない。確かに一部の年配女性がすれ違ったとき化粧品特有の匂いを漂わせることがある。ただ、その世代は電車で化粧をしない。彼女らはそれを恥じらう。電車で尻はねじ込めるけれど、公の場での化粧だけは恥じらう。匂いのする化粧品を使っているのなんてそんな世代だ。
電車内で化粧をする世代の化粧品は得てして無臭であるし、僕も匂いで苛立った記憶はない。匂いの線は消えた。
 

この苛立ちは五感のうちどれが反応しているのか

人の五感が直接的物理的な害や苛立ちを受診するアンテナだとすると、化粧は音もせず(聴覚)、匂いの線(嗅覚)も消え、肉体的接触(触覚)もない場合、残すは視覚と味覚だ。僕は電車内で化粧品を食べさせられたことはない食べさせられた人もいないはずだ(食べさせたら別の違法行為だ)。つまり味覚も消えた。ということは、電車内で化粧をすることへの苛立ちは、視覚的にくるものということになる。
 

ナルシストに対する苛立ちとの類似

不細工な男が電車内で鏡を見つめ、眉間にしわを寄せながら毛先のスタイリング具合をいつまでも気にしていたらどうだろう。イラっとするに違いない。電車内での化粧はそれと同じなのだろうか。よくある顔の女性が化粧に精を出す姿は前者のそれと確かに類似している。視覚的にそんな姿を見せられることが不快かというとそうなのだが、僕はこの2つは体感的に、似て非なりと考える。
例えば、自分の父親が出かける前に「家で」鏡を真剣に見つめ髪のセットを何度も念入りにする様な奴だった場合、「何してんだハゲ」とイラっとしてしまうかもしれない。一方、もし母親が「家で」念入りに化粧をするタイプだった場合、滑稽には思うかもしれないが視覚的な苛立ちは存在しない。「電車内で」というシチュエーションを除いてしまえば、たちまち結論が異なってくる。だから、電車内で髪をセットする不細工な男と、電車内で化粧をする女に対する苛立ちは別の感情によるもの、もっと言えば電車内で化粧をする女への苛立ちは、自意識過剰な人に対する嫌悪とは異なるものだと僕は考えている。
 

長くなってしまったので結論を急ごう

僕は、電車内で化粧をする女に対する苛立ちは、視覚的なものからくるわけではないとの結論に達した。正確に言えば、映像はもちろん視覚的にくるが、この苛立ちは自分の中の精神的な部分、つまり第六感から生まれているのである。
 例えば、僕の母(大活躍)が出かける朝に寝坊をし、電車内で化粧をすることとなった場合、僕は母のその姿にイラっとはしない。(みっともないとは思うかもしれないし、他人を苛立たせることをする身内への苛立ちはあるかもしれないが、その苛立ちもまた別の話だ。)同じ電車内、同じ性別、平凡な顔の母が化粧する姿を目にしてもだ。母を友人の女性に置き換えたとしてもそれは変わらない。簡単に言ってしまえば身内贔屓なのだが、この事象が僕の結論への鍵となった。
 

いや長い、いよいよ結論

電車内で化粧をする身内(友人など含む)と、他人に対する僕の感情は上述のとおり異なる。その違いは、身内と他人と僕との関係性の違いからくるものと考えられる。「電車に乗ったら化粧をする女性に遭遇→イラっとする」このふたつの間の感情の動きにその理由が垣間見える。細分化してみよう。
 
  1. 電車に乗り、女性と遭遇する(まだイラっとしていない)。
  2. 視覚的に女性を認識する(まだイラっとしていない)。
  3. 視覚的に女性が化粧していることを認識する(イラっとしていると思いがちだが、実はまだイラっとしていない)【ここからは更に細分化しなければならない。】
  4. 電車内で化粧しているなんて、マナーを守れないなぁと感じる(まだイラっとしていない)
  5. 瞬間的に、マナーを守れない類の奴らに嫌な思いをさせられた幾多の過去の記憶が蘇る(まだイラっとしていない)
  6. 目の前でマナーを守れないこの女と過去の記憶がリンクし、この女も嫌な奴に違いないと敵視する(はいココッ。イラっとする)

そう、電車内で化粧をする女を見た時に人がイラっとする理由は、化粧をする女の自意識過剰な面が鼻につくわけでも、マナーを守れないこと自体に腹がたつわけでもない。
電車内で化粧をしないという世間的にダメとされてる事をやってしまう人を見ると、人間は無意識に過去にマナーを守れない人によって舐めさせられた辛酸を思い出し、目の前の電車で化粧をしているマナーを守れない女も「同じ種類の人間」であると、直接の被害が出ない段階で敵視を始めてしまうのだ。
 
眼前のマナーを守れない人 + 過去の嫌な記憶
= 敵視 = 苛立ち
となる。つまり、過去にマナーを守れない人に嫌なことをされたことがない人は、きっとイラっとしないし、電車内で化粧をすることをマナー違反と刷り込まれていない人も苛立たないはずである。
(上述の身内贔屓の件が、ここでこの説を強化する。僕は母や友人の性格を知っているから、「同じ種類の人間」ではない、少なくとも敵視する程のグループの人間の嫌な記憶とはリンクしない。これが、電車内で化粧をする人が、身内だった場合と他人だった場合の違いの理由である。)
 
だから僕は「バサッ」と新聞をめくる出来る男雰囲気を醸し出すちょいワルちょいハゲおじさんには軽蔑の視線を送るし、多少の人工音を発しているとしても新聞を「フサッ」とめくる気の使える腰の低そうな、かかあ殿下の権化臭のするおじさんの頭を激しく撫でてやりたいと思う。「バサッ」と新聞をめくるおじさんは、僕の経験上では僕の敵なのです。
 
はい。長い。読んでくれた方ありがとうございます。
日常の小さなイライラから解放される「箱」の法則―感情に振りまわされない人生を選択する

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