みなケチブログ

皆がケチって教えてくれない本当のことが書いてあるブログ

日本人は個性の追求なんてどうでもいいから、協調の質を高めて欲しい

日本人は周りの目を気にする。日本は同調圧力が強く、個性は潰される。

 
うん、確かにそうだと思う。だけど、それをさも悪いことの様に語るのは違うと思う。
 
周りの目を気にするのは、常に個より公を大切にするということ。第三者からの視点で物事を考えるということ。例えば、公共の場では静かにすることだったり、人を不快にさせない態度や生き方を優先するということ。

 

同調圧力には僕も辟易してしいるけれど、僕は同調すること自体に不満がある訳ではない。同調とは言い換えれば協調であり、協調性はあるに越したことがない。
僕が辟易しているのは、周囲の行動に同調することに慣れ過ぎてしまった結果、その行動の善悪に対し思考停止している人間に対してである。
 
例えば、皆が遅くまで働いているからと、我慢して残業に付き合う人に僕は呆れてしまう。皆もそうだからと仕事の効率を下げてまで、自分のプライベートを犠牲にしてまで残業社会創生に貢献する。僕はそれを社会悪だと思うけれど、それを口にして冷たいを目を向けられるのは僕だったりする。
 
法事とやらで念仏を唱える儀式に対し「5万円の価値はないから辞める」って口にしたら、僕は変人扱いされるだろう。無宗教が多数派を占めるくせに、みんな心の中ではそう思っていることでも、それを口にしたらハシゴを外される。恐ろしい同調社会。
 
集団に同調していることが美徳とされ、それが正義か不正義かを語ることさえタブーとされる風潮はいかんせん僕には合わない。繰り返すが、協調性は重要であり日本人の素晴らしいところ。ただ、正しいことを見極める作業を経てから、僕は同調をしたい。それをワガママと言われては堪らない。それを思考停止というのだ。
 
あと、個性について。
周りの目を気にしてばかりの日本人には個性がないと言われている。
僕はそれは決して悪いことではないと考えている。同じ環境、同じ教育、同じ生活水準で育てば似たような人間が育つのは当然。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンとか言うけれど、この島国でオンリーワンなんて天才か変人かどっちか。
 
逆に例えばアメリカの人々が個性的に見えるけれど、日本とは背景が全く違う。
  • 頭にターバンを巻いたひげの濃い男が街中を歩き
  • その横で巨大なヘッドホンをつけて全身でリズムを取る黒人学生がバスを待ち
  • 太った白人おばさんがクラクションを鳴らす
  • それを眺める日本人な僕と
この街で、自分と違うやつを見つけイチイチ反応していたらキリがない。他人を気にするなんて馬鹿げている。
貧富の差があり、文化が異なる多くの人種が住み、宗教も混在している。一人ひとりに個性があるというよりかは、多くの異なる文化圏の人間が混在している。
それら文化圏単位でみれば日本と変わらない没個性な人間が溢れているはずだと僕は思う。
 
個性を持つとは、自分の生き方に信念を持つこと。
自分の信念を曲げることが協調となる場合もあるが、信念を曲げるに値するかしないか、それが正義か不正義かを「検討」していなければ、それは没個性だ。
しかし、「検討」を経たうえでの協調はそれもまた個性である。
 
ややこしいのは、最近個々人が、正義か不正義かを「検討」するのではなく、「洗脳」された末に協調している姿を散見することだ。例えば、デモに参加したり、スキャンダラスに個人攻撃をしたり。あれは没個性である。 
ほとんどの社員が17時に帰る10年連続右肩上がりの会社

ほとんどの社員が17時に帰る10年連続右肩上がりの会社