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みなケチブログ

皆がケチって教えてくれない本当のことが書いてあるブログ

星が見えずに思うこと

今日は天気が悪いから、星が見えない。でも、雲の向こうで今も、昼間も僕が寝ている間も星は輝いている。僕の目には映らないだけで、星はいつでも輝いている。

 

世の中にはそんなものが溢れている。

 

彼の絵は変わらないのにゴッホは死後しばらくしてから評価された。どこかの誰かが彼の絵を評価して、それが伝搬しいつしかゴッホの絵が貴重なものという認識が当たり前のものとなった。

 

僕には彼の絵の素晴らしさが正直あまり分からない。例えば彼の代表作である「ひまわり」は霞んだ寂しげな色合いを好きになれない。どこか不安定なタッチはひまわりのハツラツさを感じさせない。(僕は絵を勉強したことがないし、画力もないズブの素人なので、絵をかじったことのある人からは鼻で笑われてしまうかもしれない)

義務教育やテレビなどを通じ、僕の頭にもゴッホ=有名な芸術家という公式が刷り込まれているから、「ひまわり」の油性絵の具がコンモリするまで使うとことか、晩年自らの耳を千切ってしまったエピソードを聞いて芸術家って凄いなと、ゴッホ凄いなとなっていた時もある。

だからつまり、僕は自分が特別だなんてことを言いたいのではなくて、たまたま目が覚めたというだけで、ひょっとしたら今の自分が天邪鬼になっているだけかもしれない。

 

ゴッホは輝いている。少なくともそうだとされている。でも、今の僕はそれが輝いて見えない。僕の「ひまわり」には雲がかかっている。その雲はいつか晴れるかもしれないし、雲が晴れても「ひまわり」という星は僕にはやっぱり輝いて見えないのかもしれない。

 

 

 

僕のブログにファンがいるならば、その人達からすればこの文章は芸術帯びて見えるかもしれない。通りすがりのウェブサーファーからすれば捻くれた盲目ブロガーの駄文に過ぎない。「あれほど輝く星が見えないのはお前の目が悪いからだ」でおしまいである。

 

 

ひょっとしたらこのブログも幾ばくの間、分厚い雲がかかっているだけで、いつの日かゴッホの様に盲目的に素晴らしいと評価される日が来るかもしれない。天邪鬼的に嫌ってくれる人が出て来たら本物だ。

 

いずれにしろこうしてなんの利もない、書くモチベーションもないエントリーで当たり前に題材とされるゴッホはやはり偉大だ。昼も夜も雲の向こうでも輝いている星なのだ。テーマもコンセプトもなくとりあえず千文字書いてみようと書いてきたエントリーを書き終えようとしている今、そんな些細で割とどうでもいいことに僕は気が付くことができた。

 

 

僕はラッセンが好きだ。